オーストラリアのこと全然知らないのでちょっと調べた件【その1:やっぱり某国】

シドニーで暮らし始めて20日ほど。
生活していて、ふと「シドニーはおろか、オーストラリアについて何も知らん」ということに気づいた筆者(遅すぎではある)。

Photo by Mark Stoop on Unsplash
ジェームス・クック一行が上陸したときの顔
目次

歴史を薄ーく調べてみた

Photo by Michael Jerrard on Unsplash
何で知らんの?とでも言いたげ

オーストラリアは、先住民アボリジニの歴史を入れなければ、まだ建国から120数年ほどの若い国。イギリス帝国内の自治領と認められて連邦国家となったのが1901年です。

それすらぼんやりとしか知らなかった筆者。

興味がなかったわけじゃない……
けど、正直すごく興味を持っていたわけでもなかった……(ごめんなさい)

それでも今回調べてみたら興味深い背景が色々とあることが分かって、さらに掘り下げてみたくなりました。これは本当。

あの人が上陸

Photo by Andreea Swank on Unsplash
写真はイメージです

後にハワイを見つけるジェームズ・クック氏がオーストラリア大陸を発見してイギリス領に……
という流れがうっすら頭の中に残っていた筆者。
世界史は学生時代にペラリと触った程度。受験に使わなかったので全然真面目に授業を受けていなかった悪い子でした。
ジャカルタ生活で時間があったときに改めて学び直しをしたものの、オーストラリアについては記憶なし(許してください)。

上記リンク先や他の歴史文献を読んでいて、少々認識がずれていたことに気づきました。

オーストラリアにはもともと先住民族アボリジニの皆さんが住んでいて、日本が江戸時代だった頃もこの大陸ではまだ狩猟を中心とした生活が送られていたということに加え、「ジェームズ・クック氏は初めて上陸したヨーロッパ人ではなかった」ということにまず驚き。

クック氏上陸から遡ること200年くらい前のポルトガル人の商人が最初とか……香辛料を求めて上陸したみたいですが、好奇心凄すぎです(大地が荒れていて欲しいモノは何もなかったらしい)。

いやあ全然知らなかった。

モヤモヤする「ここ俺の土地」問題

Photo by Henrique Felix on Unsplash
ウルル(エアーズロック)は現在登頂禁止

しかし、個人的に以降の流れが何とも納得いかない。

イギリス人海軍士官&探検家のキャプテン・クック氏が1770年に東海岸に上陸して、様々な調査をしたのち「ここ、イギリス領!」と宣言。

”某国”こと当時のイギリスは、アメリカが独立宣言をしたため領土を大きく失っていました。アメリカは囚人の流刑地だったこともあり、行き場を失った囚人たちで国内の刑務所は定員オーバー。

「じゃあ、はみ出した囚人は新しいところに送ることにしよう」
「ついでに開拓させれば一石二鳥」

みたいな会話があったかどうかはわかりませんが、絶対似たようなことになったんでしょう。

この時代の価値観については、初めて世界史を学んだときからモヤモヤしている筆者。
「そもそも”発見”って誰目線……」「宣言したから何……?」みたいなモヤモヤが拭えない。

「ここ今からおーれの!」「オマエのものは俺のもの!」「先に誰かいた?全然気付かなかった!」
みたいなジャイアン的ノリ……

それでも、この上陸がオーストラリア近代化に繋がる最初の一歩だったと考えるとなんとも複雑です。

その後、

1788年1月26日、イギリスのアーサー・フィリップ船長が率いる第1船団11隻が、後にシドニーとして知られることとなるポートジャクソンに到着しました。船団には約1,350名の入植者が乗船していましたが、その内の700名以上が囚人で、残りの乗員は将校や乗組員、海兵隊員など囚人の監督業務に携わる人々でした。彼らがシドニーに上陸し、入植を開始したこの日を記念して、1月26日は「オーストラリア・デー」と呼ばれる祝日となっています。
TELL ME ABOUT AUSTRALIAより引用

ということで、囚人の送り込みはその後80年ほど(16万人くらい)続きます。

でも実際は囚人と言っても様々で、スラム街暮らしで貧困に喘いだ末の窃盗で捕まったりした人なども多かったとか。それにオーストラリア行きの船は環境が悲惨だったそうで、無事に着いてからも痩せた大地の開拓という過酷な状況や流行病で亡くなった方も大勢。
そんな苦労があっての今ですから、現代において「囚人の子孫」だと分かっている方々もそれに対する抵抗感は少なく、むしろ祖先に感謝している方もたくさんいらっしゃるのだそうです。

これも知らなかったなあ。

首都キャンベラ

Photo by Kiros Amin on Unsplash

「オーストラリアの首都はキャンベラ」と学校で習ったとき、「なんでシドニーじゃないの」と思った人も少なくないでしょう。
筆者もその一人でした。
なんとなく理由も授業で聞いた気がしたのですが、全然覚えてないもんで。今回また調べました。

首都論争勃発

Photo by Social Estate on Unsplash
これがキャンベラか

1851年頃、シドニーが属するニューサウスウェールズ州やメルボルンが属するビクトリア州でが見つかります。その後ゴールドラッシュが始まり、世界中から多くの人が集まりました。これをきっかけに人口が増加し、交通網が整備され、都市化が進んだシドニーとメルボルン。

そして迎えた1901年。

連邦成立時、暫定首都としてメルボルンが首都の機能を果たしていましたが、2大都市であるシドニーとメルボルンはどちらも自分たちの都市を首都にしたいと主張し、激しい論争が起こりました。しかし決着がつかず、1908年、妥協案として両都市のほぼ中間に首都を置くこととなり、ニューサウスウェールズ州から分割された土地に首都キャンベラを建設することが決定されました。

aQuAs Travellerより引用

どちらも譲らず、論争は10年近くに及びました。プライドのぶつかり合いといったところでしょうか。
これ以上の論争を避けるため、2つの都市の間に首都機能を持たせるための「計画都市」を作ることが決まったのですね。
しかし、建設はスムーズにはいかず、世界恐慌や第二次世界大戦などの影響を受けて、完成と言えるまでには80年近くかかっています。近年では国立大学や商業施設なども整備されて人口が増加していて、自然との融合バランスの優れた都市として評価されているそうです。

”キャンベラ”とは先住民であるアボリジナルの言語で「出会いの場所」という意味。なかなか粋です。

スポーツで見られるシドニーVSメルボルン

Photo by Fabian Mardi on Unsplash
メルボルンのアイコン

現在でも2つの都市間では「東京と京都」のような関係が続いているのだとか。

メルボルンの方にシドニーについて聞いてみると、

「シドニー?ちょっと街がごちゃついてますよね」
「文化の中心はメルボルンです」

みたいな返事がきたような話は、筆者も友人から聞いたことがあります。

現在のスポーツにおいては、いまだにライバル関係が顕著。

ラグビーが一番人気だというシドニーに対して「オーストラリアンフットボール」発祥の地のメルボルンにもプライドを感じますし、サッカーではシドニーFCとメルボルン・ビクトリーの対戦は「ザ・ビックブルー(The Big Blue)」と呼ばれていて、大いに盛り上がるそうです(※AU英語でblueは論争などを意味)。

知らんことばっかりだ。とても面白い。

▼その2に続く。

  • URLをコピーしました!
目次